「大津百町」の魅力 ~三つ顔を持つ町~


大津百町以前

 大津という地名が初めて歴史に姿をあらわすのは、667年~672年にかけてです。天智天皇(てんじてんのう/即位は668年)によって開かれた「近江大津宮(おおつおおつのみや)」にさかのぼることが出来ます。

 日本最初の歴史書である『日本書紀』に「近江大津宮」「大津宮」「近江宮」と記されているのがそれです。この「大津宮」は672年に起きた壬申の乱)じんしんのらん)によって廃都となり、跡地はいつしか「古津(ふるつ)」と呼ばれ荒れていましたが、794年(延暦13年)、桓武天皇(かんむてんのう)によって平安京が開かれると「古津」は再び「大津」と呼ばれるようになりました。「大津」は平安京の外港としての重要な役割を担うようになりました。


大津百町のはじまり

 大津百町が現在のような町の構造になるには、1586年(天正14)頃、豊臣秀吉政権下に浅野長吉(あさのながよし)によって築かれた大津城の城下町にそのルーツを求めることができます。

 大津城は、1600年(慶長5)に起きた関が原の戦いに際し、時の城主・京極高次(きょうごくたかつぐ)が西軍の猛攻を食い止めるため、城下を焼いて籠城することで、東軍の勝利に導きました。

 勝利後、徳川家康は大津城を廃城にし、大津を商業都市として発展させるよう計画しました。以降、大津は江戸幕府の直轄地(天領)となり、宿場町・港町・門前町(三井寺)として発展していきます。


宿場町

 大津は東海道や北国街道など、いくつもの主要街道が通る交通の要衝。江戸・日本橋から京都・三条大橋を結ぶ東海道五十三次の53番目の宿場で、全ての宿場の中でも最大の人口を有した宿場町である。

 大津は江戸時代初期から繁栄を見せ、元禄年間(1688~1704 年)には人口 18,000人、町数 100 の都市へと成長した。

 一方、北国街道と東海道の分岐点に当たる札の辻には、宿場の人足や伝馬を調達する人馬会所が置かれ、また、八丁筋には旅籠や本陣が建ち並び、付近は運送業者や旅籠の客引き、往来する旅人などで混雑、宿場町としての賑わいを見せていた。

 そこで生み出された豊かな経済力は町人文化に活力を与え、やがて文学・絵画・工芸など多くの分野で花を咲かせた。

 中でも、江戸時代初期に始まる大津祭はそのような町人文化を代表するものとして、現在も受け継がれている。


港町

 琵琶湖の物資が集散する港町大津は中世から琵琶湖の港として発達した町であり、豊臣秀吉が蔵入地の年貢を輸送したり、征韓の役に兵糧を集めるため、北国から琵琶湖に転送したことから、京都・伏見・大坂への起点として大津港が一繁栄することとなりました。

 大津城本丸跡地は大津代官所と幕府直轄領からの年貢米を保管する御蔵として転用、また堀の一部が埋め立てられ湖岸の関(荷揚げ場)とされるなど、商業都市への第一歩を踏み出します。

 湖岸には 13 ヶ所の関(荷揚げ場)が造られ、多くの丸子船が発着し、大名・旗本の蔵屋敷が軒を連ねていました。

 その後も、大津は琵琶湖水運による諸物資の集荷港として、また、江戸時代の大津町は商業都市として繁栄していきます。 


門前町

 

 859年~877年(貞観年間)、延暦寺の第五代天台座主・智証大師円珍和尚が長等山麓に天台別院として三井寺(園城寺)を再興しました。

 源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇し、多くの苦難を乗り越えてきた様から、「不死鳥の寺」としても知られています。

 15世紀以降、三井寺の支配画及ぶ地域には、東浦、八町、金塚、下今颪(しもいまおろし)、南保、北保といった、江戸時代の「大津百町」につながる地名が登場しています。

  その三井寺の門前町として茶屋・酒蔵・菓子屋など多くの店が生まれ、賑わいを見せました。